第6陣 2015年12月~大学3年 まゆこ隊員
私は今回初めてボランティアに参加しました。
震災があった時、テレビで東北の被害を知っても同じ日本だとはあまり思えず、何となく辛いなぁ、可哀想だなぁと他人事のように思っただけでした。
世界で苦しむ人々の番組を見ていても動けないのとは違い、ボランティアに行こうと思えばすぐに行ける場所であるにも関わらず、行きませんでした。
4年たった今なんて、震災があったことすら忘れていることが多い日々を過ごしていました。
しかし、震災から今もなおずっとボランティア活動をしている友人の話を聞き、ハッとしました。
孤独死が増えており、ボランティアは減るばかり、忘れ去られようとしている今こそ再びボランティアが必要だということ、友人が行っている活動の様子と被災地の人々の様子を聞き、初めて被災地を身近に感じました。
ボランティアに誘っていただき、初めて行こうと思いました。
行くと決めてからは、どうしたらいいのだろうか?楽しい企画をしているけれど、被災地の方の前で明るくしていいのだろうか?どんな言葉をかけたら良いのだろうか?何が出来るだろうか?傷つけてしまったらどうしよう。などという不安ばかりでした。
ボランティア当日、まずは被災地を見て回りました。
何度もボランティアに来ている方々はだいぶ復旧が進んでいると話していたけれど、思った以上に被害の爪痕が残っていると感じました。
大川小学校は、鉄骨がむき出しになり、太いコンクリートの柱が折れ、天井や壁、全てがボロボロに破壊されており、津波の恐ろしさや津波の様子が目に浮かぶように伝わってきました。
『すべてを飲み飲む』という言葉がふさわしい状態でした。
それから仮設住宅に行きました。
仮設住宅を見た第一印象は物置でした。
狭いプレハブで周りはコンクリート、花は家の前に少しプレートで置けるだけで周りに生える場所もなく、殺風景でした。
隣の家の音は筒抜けで、大声で話すことも出来ない、決して居心地がいいとは言えない場所でした。
しかし、私達が企画したイベントに顔を出す住民の方々の表情は笑顔で、「ありがとう」「ご苦労様」「素敵ですね」などの言葉をかけて下さいました。
ボランティアが来ることを楽しみにしている方が多いようでした。
足の悪いお年寄りの方も、ゆっくりゆっくりと足を運んで下さり、ご飯を美味しい美味しいと言って食べてくれたり、色々な話をしてくれました。
住民同士で気遣う姿も見られました。
子ども達はそれぞれ好きな遊びややりたいことを見つけ、友達同士で元気にはしゃぐ姿を見せてくれました。
ボランティアに対してすぐに甘える子どももいれば、大人との関わり方がわからないような、甘えたいけれど難しいといった姿を見せる子どももいました。
「見て見て!」「何か手伝うよ!」などと言って大人に褒められることを望んでいる子どもが多いように感じました。
子ども同士で幼児を可愛がる姿も見られ、自分が優しくされたい分、小さい子どもに優しくしているようにも感じられました。
子どもを持つお母さんは、少し申し訳なさそうな顔をしながらも、お母さん同士で交流をしたり子どもの楽しそうな姿を見て嬉しそうでした。
子ども達も大人の方も夢ややりたいことを話して下さり、前を向いて生きているんだなぁと思い、嬉しい気持ちになりました。
一方、男の人の参加率が低いことや、子どもが思い切りはしゃいだり甘えたりすることを我慢していること、仮設住宅の生活に対する苦しい気持ちを話して下さる方がいることなどの問題も見えてきました。
楽しい活動の時ではない日常では、もっと苦しい思いや寂しい思いをしているのだろうと感じました。
仮設住宅を出る方も増え、残されていくという気持ちも恐ろしいものだろうと感じました。
しかし、ボランティアにおもてなしをすることを楽しみにしていたり、ボランティアの方を息子のように思って話をするのを楽しみにしていたり、ボランティアの行ったイベントがきっかけで住民同士が繋がったり、ボランティアの存在は大きいものでした。
不自由な生活の中で、大きな悲しみを抱えながら、それでも明るく生きようとする被災地の方と触れ合い、本来の人間の幸せというものに触れたように思い、人間として大切な生き方を改めて考えさせられました。
元気を、笑顔を、希望を与えたいと思っていましたが、すべてを被災地の方にいただきました。
それはきっと、互いに思っていることで、本当に助け合い、支え合い、幸せを分け合っているのだと感じました。
心から、本当に行って良かったです。
おそらく、行く前の私と同じように思っている人は多いと思います。
時間がなくて行けないという人も多いと思います。
しかし、行って良かったと思わない人はいないと私は思います。
どう感じたっていいんです。
どんな気持ちでもいいんです。
助けなければいけないなんてことはありません。
ただ触れ合うだけで幸せを感じあえるんです。
不思議なものです。
そんな体験を是非多くの方にしていただきたいと思います。
心と心が繋がる暖かさを感じていただきたい、そう強く思えるボランティアとなりました。
第7陣 2016年1月 大学3年 桃子隊員
1月8日夜〜10日まで宮城県石巻市に行ってきました。
今回の活動内容は、
【9日 】
①被災者さん宅で震災当時のお話を聞く
②石巻市 大川小学校 視察&清掃活動
③日和幼稚園バスにて被災し亡くなった愛梨ちゃんのお母様に 日和山周辺を案内してもらいながら震災当日の話を聴く
④餅つき大会の準備
【10日】
①餅つき大会
②仮設住宅でお餅を配りながら傾聴活動
といったものでした。
宮城県石巻市北上町の被災者さん宅では、津波にのまれて生死を彷徨った(一緒にいた母親は紙一重の差で津波で亡くなった)高校生の息子さんと父親から震災当時の話を聞きました。
母親の分まで生きる。自分が生き残ったのには何か意味があるという力強い思いを強く感じました。
町を歩いたり、大川小学校を視察する中で、改めて災害の怖さを肌で感じました。コンクリートの建物が無残な形で残されていたり、更地になってしまった場所も多くありました。
すごい音で防災無線が鳴り響き、黒い波に飲まれていったといった話も聞きました。また、小学校前の慰霊碑には沢山の子供の名前が刻まれていました。
「子供を守るのは大人である。」
幼いながらに、私達には到底想像もつかないような怖いな思いをして、必死に親や先生に助けを求めたと思います。
夢や希望を持った生きたくても生きられなかった子供が沢山いるのです。
3.11を教訓にし、この子達の尊い命を決して無駄にしてはならない、、と考えさせられました。
町は復興に向けて少しずつですが、姿を変えています。そんな中でも、(日和山幼稚園バスにて被災した)愛梨ちゃんのお母さんの時間は愛梨ちゃんを失った4年前から止まってしまったままなんだなって胸が締め付けられる思いでした。
あの時助けに行ければ、、もし〇〇だったら助かったかもしれない、、そんな事を何度考えたでしょう。
そんな辛い思いを抱えながらも、私達に話をして下さる意味を考えなくてはいけないと思います。
次の日の餅つき大会にむけて、寒い中での準備は大変でしたが、喜ぶ顔がみたいとの思いで、同じ思いを持つ7陣の仲間と協力して楽しくできました。
地元の方の手助けもあって、お餅つきも大成功でした。
12月のクリスマス会に参加して下さった仮設住宅のお宅にお餅を配りに行かせて頂きました。想像以上に喜んでもらえてよかったです。
1ヶ月ぶりの再会ということで、「また来てくれたんだ〜!!」と皆さん喜んで下さいました。
継続した繋がりの大切さを実感しました。
4畳半の空間での生活は寝るだけでも精一杯の広さだし、不便なこともあるけれど、家族を超えた輪で助け合って生きている姿が印象的でした。
ボランティアを応援して下さる、政子おばあちゃんが(自らも夫を亡くした被災者)ご飯を作って下さいました。心のこもった食事がすごく美味しかったです。孫のように可愛がってくださいました。
「多くの人が津波で流されて亡くなった地域の方ばかりで 普段は静かだから、こうやって月に1回来てくれることが1番嬉しいんだよ!また待ってるね!」と言ってくださいました。
「行ってきますって言ったっきり帰ってこなかった。」っていう言葉を多くの方から聞いて、心が締め付けられる思いでした。
私は被災はしていないし辛さは全て分からないけれど、また来てね!という言葉には応えられるようになりたいなって思います。
東京から車で数時間移動した所で起こっている現実です。あまりのショックに初日、車を降りて言葉が出ませんでした。1人1人が被災地の事を思い続け、風化しないために周りに伝えていくことが大切であると思います。作業をすることだけではなく、笑顔や楽しい時間を届けることにボランティアとして行く意味があるんだなって改めて気付かされました。社会福祉を勉強してるので、将来役に立てたらいいなと思います。
子供が好き・石巻の美味しいものが食べたい・お年寄りが好き、、最初のきっかけは何でも良いと思います。わたしも1人での参加で不安がありましたが、全く心配いりませんでした。
ぜひ勇気を持って一歩踏み出してみてください!
2016年3月 第9陣 ~メイ隊員~
昨年11月に福島県いわき市を訪れてから、わたしにとって今回が2回目の被災地訪問でした。
【1日目】
佐藤山(喫茶去苑)訪問
大川小学校視察
松巌寺にてイベント準備
【2日目】
イベント-3・11を超えて希望の春へ-
仮設住宅訪問
地域の人たちに『佐藤山』の愛称で呼ばれる喫茶去苑は、佐藤善文さんという方が10年の月日をかけて山の上に造った避難所です。周りの住人からは「こんなところに大きな津波なんて来るはずない」と笑われていた佐藤さんでしたが、震災当時は8畳ほどの小屋にお年寄り、子ども、国籍まで超えた約70人もの人が避難をしてきたそうです。佐藤さんから"地震は地球の営みということを謙虚に受け止めたうえで、日頃から自分の身を守るために行動することが大切"と学び、今まで他人事となっていたことが、今日これから自分もあの日と同じ状況に立つことになってもおかしくはないのだと改めて感じさせられました。
東日本大震災から5年という月日が経った今、わたしがボランティアとして被災地に足を運んだところで何かできることがあるのだろうかと、心のどこかで参加に踏み切れない部分がありました。2日目のイベントの際にお話しさせていただいた女性が、今まで誰にも話したことのなかった胸の内をわたしにお話ししてくださいました。彼女は"何もできないなんて考えちゃだめだよ。来てくれるだけで嬉しいんだから。"という言葉を贈ってくださり、ボランティアの存在を再確認することができました。
震災当時は瓦礫の撤去や家の片付けといったように自分の役割を見つけるのが簡単でしたが、5年が経つとそういった作業も少なくなり、ボランティアとしての活動もひとひねりして自分たちで考え行動しなければならなくなるという話をお聞きしました。しかしその難しさがあるからこそ楽しさや喜びが大きくなり、そのおもしろさに魅せられて活動しているのだと自分の知らなかった自分を見つけることができました。
たまたま、参加したメンバーの中に同じ大学の子がいると分かったところからはじまり、今回は本当に出会いの多い活動だったと感じています。
東北の人たちは明るく笑顔が素敵で、わたしたちを家族のように受け入れてくれました。名前を呼んでもらえたり、"またいつでもおいで"の言葉に心が温かくなり、この活動を今後も続けていきたいと心から思います。今回の活動で出会ったすべての人に感謝し、この「縁」をこれからもずっと大切にしていきたいです。
自分と同じ想いをもったメンバーとの活動は共感できる部分はもちろん、新たな考えを教えてくれたり、自分の真の想いに気づかせてくれたりとわたしを大きく成長させてくれました。
東北ボランティア活動に興味があってもなかなか踏み出すことができなかった人が、一歩踏み出して新しい自分を見つけるきっかけになったら嬉しいです!
七回忌慰霊祭
3.11 東日本大震災から6年。この日を初めて被災地で過ごしました。いつものように早朝、大川小学校に行くと早朝にもかかわらずたくさんの人がいて、たくさんの花が添えられていました。また大きなバスも何台かとまっていてメディア関係の人もいました。私は手を合わせました。
14時46分。 サイレンの音が鳴り響きます。なり始めた瞬間、正直ぞっとしました。6年前のこの日のことを想像しただけでも怖かったです。黙祷の時、私は子どもたちの隣でしましたが、子どもたちがあの大地震をここで、そして津波をその目で見たのです。本当に怖かっただろうな、と思います。私は震災の日、中学3年生。そして千葉県にいました。千葉県でさえ大きく揺れましたし私はずっと泣いていました。なのに、、、やはりその怖さは計り知れません。
黙祷のあとはみんなで色とりどりの風船を空に飛ばしました。一人ひとつずつ。それぞれの想いを込めて。風船はどこまでも飛んで行きました。見えなくなるまで子どもたちと見守りました。「ぼくのあの風船どこまで飛ぶかなぁ?」とか「私の風船あれ!あれ!!」とか「あ!今カラスに食べられたよ!見て見て!」なんて子どもたちは言ってました。それぞれの想いが届きますようにと私は願いました。
次の日は女川町に行きました。
案内してくださった方が言いました。「さあ、もし自分があの日ここにいたら、住んでいたら、どうしてたと思いますか?」
私も考えました。
・・・急に大地震が起きます。立ってもいられないほど強い地震。食器棚が倒れて来る。いろんなものが落ちて来る。地震がおさまった。ものを少し片付けていたら津波警報が。 津波来るのか、、、大事なものは一応二階に持って行っておこう。万が一家が浸水したら困るもん。 、、、せっかくだし津波見に行ってみようかな?近くに少し高めの場所があるしそこから動画でもとっておこう。滅多にない機会だし。 外へ出て、高めのところに登る。海岸線の方から波が押し寄せて来るのが見える。「おぉー。」と思っていると急に!入り江のところらへんから黒くて大きな壁のようなものが!!!「なんじゃあれ!?」 その後すぐに津波にのまれてしまい、、、津波は女川町を襲いました。そこでたくさんの人が亡くなりました。高台のさらに上、病院の2階より上にいた人は助かったそうです。その方たちは病院の窓から津波、そして流される人たちを見ていたそうです。
東日本大震災から6年。メディアではなかなか報道されませんが、復興はまだまだです。また変わっていく街もありますが、もう二度と会えない人がいること、戻れないふるさとがあります。 そんな今、私にできることは何か。誰でも、どんなに小さなことでもできることはあるはずです。たとえ小さなことでも。 私はこれからも被災地に足を運びます。そして歌で癒し、元気、勇気、希望を届けたい。そして震災を自分自身が忘れず、そして伝えていきたい。心からそう思います。
第63陣 角田市災害ボラ&石巻震災遺構から命を学ぶ
2日間お疲れさまでした、お世話になりました。
たくさんの人と出会い、話を聞き濃密であっという間の2日間でした。
床下の清掃作業狭くて汚れて大変でしたが、充実感でいっぱいでした。
そんな重労働なボランティア活動を日頃から行っている方々には本当に頭が下がります。
その方々と一緒にボランティア活動をしたんだ、人の役に立つことが出来たんだという誇りのようなものも感じました。
この1回だけでは終わらせることなく、また別の現場にも足を運ぼうと思います。
友人にも声をかけボランティアの輪を広げていきます。
そしてジャンルは違いますが、越谷市に住んでいる外国人に日本語を教えるというボランティアがあり、4月からそれを始めようと思います。
やろうかやらないか迷っていましたが今回の活動を通してとかく行動してみることが大切だと学んだので挑戦してみます。
ボランティアは大変ですが、楽しいですし嬉しいものですね。
自分なりにできることを模索して様々なことをやっていこうと思います。
語り部さんたちの活動にも感動しました。
被災された方から聞くお話はテレビの報道で聞くより重みがありました。
個人で被災地慰問するのと語り部さんたちのお話を聞きながら被災地慰問するのでは大違いだなと感じます。
語り部さんたちの言葉をしっかり受け止め、有事の場合には正しい選択をしていこうと思います。
震災に真正面に向き合ったかと聞かれたら自信を持ってイエスと言えないような9年間を過ごしてしまったので、
今回ダイレクトにリアルに向き合うことが出来てほんとうに良かったです。
素敵な機会を与えてくださってありがとうございます。
今後の活動も応援しています。
オノ ユキ 22才 大学生